2015年12月30日

知音。

知音、という言葉の意味よりも、その由来が好きだ。
細かいところはうろ覚えだけど…。

中国春秋時代、伯牙という琴の名手がいて、鍾子期はその友だった。
伯牙が高い山を心に描きながら琴を奏でれば、
それを聞いた鍾子期は「崑崙にそびえる山のようだ」といい、
伯牙が河の流れを思いながら琴を爪弾けば、
鍾子期は「まるで黄河のように雄大だ」と答えた…っていうぐらい、鍾子期は誰よりも伯牙の奏でる琴の音を理解していた。

そして鍾子期が死んだ後、
伯牙は自ら琴の弦を切り、
「自分の琴の音色を真に理解してくれる人がいないのに、琴を奏でる意味が無い」
そういって再び琴を弾くことはなくなったという。

このことから、知音は「親しい友、恋人」を指す言葉になった。


ボクには、少しだけその伯牙の気持ちが解る。

そういう嬉しさと、それを失ったらという恐怖や喪失感を想像する。
自分が心に描いたものが、密かに思い描いたイメージが、
誰かの心を音叉のように震わすことが出来た時、ボクはとても嬉しいと思った。
そう感じた時、ボクの心もまた同じように震えていた。
そこには目に見えなくても、共通する周波数があった。

何かを発信する人間として、そういう存在はとても大きいし、
かけがえのないものだ。
ボクの言葉が、存在が、意味のあるもであるには、そういう存在が必要なのだと思う。
それ以外に、なんの意味もないのだ。


伯牙ほどの潔さはないけれど。
そう思う。


さて、年内最後のリハへ。
posted by 中神謙一 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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