2016年05月07日

意味、とか。

いくつかの企画にスタッフとして関わらせてもらって、
初めてやってみることや、新しく学んだことなんかがたくさんあった。
規模や形によって、企画から発表、実施までに時間がかかったり、
順調に見えていたのに企業や行政側との調整にトラブルが発生して頓挫するものもある。

誰かが悪い時もあるし、
誰も悪くない時もある。

その中で、改めて物事の意味というのを考えたりした。

真の芸術に評価は必要ない、なんてことを言う。
でもボクはそうだろうかって思う。
もちろんそういう崇高な(それがそうかはわかんないけど)想いや思想、突き動かされている衝動というものにしたがって何かをしている人もいるんだと思うんだけど。
それでもボクはそうだろうかって思う。

評価は必要だ。
良い評価でも悪い評価であっても。
それはそこにあることの意味だろう。
何かひとつでも、
誰か一人でも、
そこに意味を見出してくれれば、存在していられるんじゃないかと考えていたことがあった。
ずいぶん昔の話だ。
もちろん、仕事としては、一人だけにしか届かない意味では成立しないのだけど、
気持ちとしては今でもそう思う。

* * * * * *

説明することの意味ってなんなんだろう、と思う。

例えば――この絵にはこういう意味があるんです、こういう意図で描いたんです。
この作品はこれこれこういうものを表現したくて作ったのです。この形はこれを表現しているんです。
そんな風に説明されると、「ふむふむなるほど」ってわかったような気になっちゃうんだけど、
なんだかそれもまた少し違う気がする。
ボクもしちゃったりするんだけど。

近づいた分だけ離れてしまったような気分になる。
作品に近づいた分だけ、自分から離れてしまったような気がする。
意味というのは、自分で手に入れるものだ。
それが価値を見出すことでもあるのだ、と思う。
見て、触って、美しいとか素晴らしいとか楽しいとか、
そう感じる部分を大事にしたいって思う。
時に醜い、ということが価値であるときもあるだろう。
それを好きだと思うこともある。

ともかく、ボクが好きだと思っている、そこに意味があるんじゃないか。
そう考えている。
他の人に無意味でも。

人の数だけ解釈や感想があって、そこには本当の意味での優劣なんてなくて、
ただその人がそれをどう思ったか、好きか嫌いかでしかなくて、
それは本当にあやふやな感覚で、明日には好きが嫌いになって――あるいはその逆だって――ありえることだと思っている。

ボクたちはそういうふわふわしたところで生きている。

まぁ、それでも、悔しかったり、もっと――と求めてしまうのだけど。


* * * * * *

あまり解説が必要なものって好きじゃない。
作品に対して、オフィシャルに解説をするのも好きじゃない。
そういうものは、作り手側の意識の中で共有していればいいんじゃないか、と思う。
むしろそっちは必要で。

もちろん、そういう解説が、すとんと自分の中にハマって、感覚が深まる時もあるんだけど。
たまに解説が先にある場合があって・・・そういいうのは、こういう風に見てくださいね、こういう意味で作りましたよって誘導されているような気がしてしまう。

まぁ、ひねくれているだけかもしれないけどね。

* * * * * *

できるなら解説や説明ではなく、そっと個人的に、こんな風なものを作りたくて、こんなことがしたくてやってみたんだ、なんて話したり、どうだった?君はどんな風に感じた?なんて感想を聞いたりしてみたい。

ごく、個人的に。

そう、夜の手前にみた綺麗な群青色の空の色、
雨上がりに見た夕焼けの美しさとかを、
そっと伝えて、その感想を聞いたりしたい。
共有したい。
そこにはすごく意味があって、価値があった。
ごく個人的に。


久しぶりの更新、なんだか長々と書いてしまったな。
次はおとぎばなし、のこと。
posted by 中神謙一 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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